「句読点の『。』を使うと威圧感を感じる、怖い」というニュースにおののいた。
めっちゃ使ってるで。
たぶん、想像するに「そういう人たち」と接したことのない者同士で起きる、コミュニケーション格差なんだろうな。
「そういう人たち」というのは、若い世代、えーっと。
私は51歳だから、自分より年下の人々が若い人ということになるので、えーっと。怖がっている「そういう人たち」と、礼儀として好感を持って用いている「そういう人たち」の両方を指しています。
それにしても育ってきた時代背景の差で、こうも違うもんなんだなぁ。
私はおひとりさまで子どももいないしで、やや外野の気分であるが、使っているんだから怖がらせている側である。ざんねーん。けど、その方々と接触する機会がないので実害は与えていない(と思いたい)。そしてそんな自分を顧みて、「かしこまる機会」があったラッキーな時代に育ったのかな、なんて思ったりもしている。
例えば、お友達のおうちへ電話をかけるとき。それは、私にとってはじめて学校以外の「大人」に接する「社会の入り口」だった。
あの時代はインターネットも携帯電話もなかったんで、通信手段としては自宅に電話をすることになる。おおむね電話機が一家に一台しかない。余程の金持ちか商売人の家を除くと。
ちゅまり。お目当ての友達、当人が一発で出るとは限らない。そのお宅のどなたかが電話口にお出になるわけで、この時「かしこまる機会」のロシアンルーレットが回される。
無口のあまり「うむ」しか言わないのに何で出くれはったんですかっていうお父さんや、喋りすぎるお母さんなど、百戦錬磨の「大人」と対峙するリスクはできるだけ避けたい。ごく稀に、お兄ちゃんが学校一の人気者というクラスメイトを親友にもつ場合もあるが、緊張による体力の消耗は先述の大人と大差ないのでできれば当人に出てもらえることを切に願う。
摩擦のリスクを限りなく減らしたいから「ご飯の時間かな」「お風呂に入ってるかな」「夜、遅くないかな」などなど、失礼が無いよう、相手の家庭の都合も可能な限り考える。
「〇〇時ごろ電話をするから、出てな」
と、念入りに約束までしておくのだが、だいたい当てが外れてその家の「大人」であるお父さんやお母さん、兄さん姉さんなどが電話口に現れるのだ。そうなると観念して、自分の中のとっておきのよそ行きと最高敬語で名乗り出る。
「〇〇ですが、〇〇ちゃん居てますか?」
そして当人に取り次いでもらう訳だが、運悪く、相手が怒られた直後や真っ最中の場合はお互い小声で
「ごめん、また明日。学校で」となる。
たった一言を交わすまで、これだけスリリングに想像力を働かせて育ってきた人間とそうでない人間が、最新のワイヤレス移動式電話機で、文字を操ってコミュニケーションを取るんだから「。」が脅威にもなり、礼儀にもなる訳だ。
ま、礼儀と聞くだけでアレルギー反応が起きるのかもしれないけれど、そもそも礼儀とは好意が出発点であることを書き添えておきたい。言うたら古風な身だしなみと清潔感みたいな感じですわ(ほんまやな)。好きな人、今のことばで言うと推しでしょうか。推しに会いにいくとき、オメカシしますやろ?
って、一方は生まれた時から携帯電話があるんだから、そりゃー、隔世の感ありですわな。お互いに。
というわけで。どちらかが一方的に合わせるというよりは「怖がっている気持ち」と「礼儀に乗せた好感の気持ち」があることを知り、双方歩み寄りの元、相互理解をしていく明日にしたいものでございます。
なんて。偉そうなことを書きましたが。
レイキを習ってちょっと寛容になれた、ワタクシです。
前やったら「なんやとー!日本語が乱れるやないけ」ぐらいに思っていたと思います(めっちゃ嫌われるタイプ)。
お・し・ま・い
私の習っているスクールです。
NPO法人日本レイキ協会