「夢なんか持たなくていい」と練習会で先生がおっしゃったとき、意味がわからなかった。
けれど、畑を手伝いはじめて自然の中に居る時間ができた今。
その意味が少しわかった気がする。
と、言うのも先月から、ものすごい変化が起きた。
まず、畑をすること自体がすごい変化。
そして次が、考え方が変わったことがすごい変化。
どう変わったのか。
変わったことのひとつをこちらに書きましたが、もっと凄いこと。それは
「確約がなくても黙々と進んでいくこと、行けること」です。
レイキ法を実践する前の私なら
「その資格を取ったらどんなメリットがあるの?」
「なれる確率は?」
「資格を取る最短ルートは?」
などなど、自分にとっての確約を血眼になって探していた。
ゴールが見えて、且つ、そのゴールが魅力的でなければ心を動かされることもなかった。
生きている目的が物質にあったからだと思います。
けれど畑を耕していて、こう思った。
「こんだけ苦労して耕しても、日照りや台風でいっぺんにおじゃんになるかも。でも、そういうもんやんね」と。
自然とはそういうもんだ。
例えば、いつでも満タンに品物が並んでいて買いたいものが揃っているスーパーマーケットは、むしろ不自然なんじゃないのか。
なんて。
去年、父が亡くなったバタバタで1年近く放ったらかしだった畑は、雑草が腰まで伸びている。
まず、鎌である程度短くしてから三本鍬でワッシャワッシャ耕す。
手で抜いていては間に合わないから、力業である。
特に、根っこが30センチ以上地中深くにはびこるスギナに四苦八苦しているから、以前の私ならきっとこう思ったはずだ。
「こんだけ苦労してるんだから、結果見せてよ」
「おいしいおいしいお野菜が大量収穫という結果で喜ばせてよ!」ってね。
けれど、今、それを求めていないのだ。
ただ、放ったらかしだったからヒドイ雑草に苦労している。
それは、それ。
もちろん、おいしいお野菜がたくさん実ったら嬉しいに違いない。
けど、それは、それ。
なんて言うのかなぁ。
自分としてはちょっと安心立命の境地に近づいたつもりなのだ。
以前、練習会で「夢なんかなくったっていい」と先生がおっしゃった時、ポカンとして意味がさっぱりわからなかったけれど、畑をはじめて推論がひとつ出来た。
畑をする前は、夢や目標を持って突き進んで、変化・成長を楽しむというのは100人居たら100人が賛同して賞賛に値する生き方だと思っていた。
これと言ってやりたいことが無かった私は、日本伝統式レイキを実践するうちに「見つかればいいな」と思っていたので、先生のおっしゃることをわかりたくなかったのかもしれない。
けれど、自然相手に畑を耕していてわかったのだ。
創造して完成を見るだけが人生ではない。
私の思うそれは、むしろちっぽけなことなのかも。
天地創造くらいのスケールなら別だけど。
今まで私は、向上心という罠に踊らされていたのかも。
ただ、ご機嫌さんに日々を生きることが人間の本質なんじゃないかな。
うまく行っても行かなかったとしても、何かが完成してもしなくても。
ただ黙々と今を生きることが本質なんじゃないのかな。
なんて思ってしまったのだ。
自然は偉大だな~
わたしの習っているスクールです!
NPO法人日本レイキ協会
私の受講歴:日本伝統式レイキアチューメント講座
初級:2023年 9月下旬
中級:2023年10月中旬
上級:2023年11月下旬